【日吉キャンパスの謎】慶應生よ、ひようらの道って何かおかしくね?

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日吉駅西口は、バス停を中心として飲食店や住宅街がWi-fiのマークのように広がるエリア、通称「ひようら」があります。

『東口=日吉キャンパスが存在する=日吉の表』だから、『西口=日吉の裏』といった具合でしょう。慶應至上主義が全面に出ている安直なネーミングセンスではありますが…利用している人の多くは慶應生であるので、このような名前が付くのも頷けます。

ひようらに関する熱い議論を交わすことは、かっこいい・かわいい・キラキラ・モテる慶應生の嗜みと言っても良いのではないでしょうか。それほど、日吉や矢上キャンパスを利用する慶應生にとって、身近なエリアです。

では実際に、ひようらユーザー同士でひようらについて議論してみましょう。すると、必ずと言って良いほど俎上に載せられる「謎」が存在していることに気がつくでしょう。

――そう、人工的で奇妙な街の構造についてです。

バス停を中心に放射状に延びる五つの縦の道と、バス停を中心に角ばった弧を描く横の道。一見すると、小学生がシムシティで作った街並みのようで、ほのぼのとしますね。

ひようらを愛し、ひようらに愛された慶應生なら「こんな街並みができたのはなぜか」「誰がこんな街を設計したんだ」といった疑問に一度は遭遇します。

この記事では、そんな慶應生の疑問をベースに、歴史学・地理学・土地経営学の観点からひようらの謎を紐解く「ひようら学」について熱く語っていきます。日吉キャンパスを利用する慶應生の必修科目ですので、熟読してひようらマスターになりましょう。

慶應が日吉にキャンパスを置いたのはなぜ?日吉駅の歴史に迫ろう

—慶應生は『田園都市株式会社』を知っておこう

まず、日吉駅の歴史を学ぶにあたって『田園都市株式会社』について知っておきましょう。この会社なしでは慶應の日吉キャンパスは存在しなかったといっても過言ではない、日吉キャンパス生みの親です。

名前だけ聞くと何をやっているかわからない怪しげな会社のように思えますが、その正体は1918年に設立された住宅地開発会社。現在の東急グループの源流です。

東横線や目黒線沿線の土地を次々に買収し、20世紀前半の住宅地開発を担っていました。さらに、開発した土地に人々を住まわせるために鉄道事業も展開し、東京や神奈川の交通網整備を支えていた会社でもありました。

—日吉駅のこれまでの遍歴を解き明かす

それでは、この鉄道事業によってどんな線路が作られたかに注目しつつ、日吉の遍歴を辿っていきましょう。

  1. 1922年、田園都市株式会社は鉄道部門を独立させ『目黒蒲田電鉄株式会社』を発足させます。
  2. 1923年には、現在の目黒線に当たる区間(目黒〜多摩川間)を開通させます。さらに同年に、現在の多摩線に当たる区間(多摩川〜蒲田間)にも線路を引いて接続し、目黒から蒲田を繋ぐ「目蒲線」を完成させました。
  3. 飛ぶ鳥を落とす勢いで東京の交通網を整備し、流れに乗っていた『目黒蒲田電鉄株式会社』が、1924年に『東京横浜電鉄株式会社』に改称します。この名前から、線路をさらに神奈川県まで拡げようという意識が読み取れますね。
  4. そして、1926年に神奈川駅(反町駅と横浜駅の間に存在していた駅、現在は廃駅)から目黒駅までの区間を開通させて「東横線」を完成させます。
    この時に日吉駅が作られることになったわけですが、1923年の関東大震災から復興が進み、他県に避難していた人が都心や都心郊外に戻ってきたことが相まって、都心から遠い日吉が住宅地として全く売れない状態でした。
  5. そこで、東京横浜電鉄株式会社は、1928年に日吉駅東口側の約7万2千坪の土地を無償提供する条件で慶應義塾を誘致し、学生のための商業地として西口の開発を始めることにしました。

ひようらは、田園調布をパクった街だった!

—日吉の街並みは田園調布のコピータウン??

そんなこんなでひようらの開発が始まったわけですが、驚くことに、ひようらの構造とほとんど同じ街が、1928年には既に存在していたそうです。つまり、ひようらはその街を模倣して作られたコピータウンだったのです!

ひようらのオリジナルは、なんと『田園調布駅西口』

凱旋門のような西洋風の駅舎を中心に、放射状の直線道と同心円状の環状道路が交差しています。まるでパリの凱旋門通りのようなこの道路は『エトワール型道路』と呼ばれ、ひようらの構造と一致しているのです。

もともとこの土地は、畑だらけの長閑な土地でした。そこに目を付けた田園都市株式会社が「東京の中心部は人が多すぎるから、郊外に快適な理想の街を作ろう!」という理由で土地を買収し、1918年から手塩にかけて開発を行いました。

その後、東横線開通の1928年より分譲開始。開発から100年経った今、言わずと知れた高級分譲住宅地帯となっています。

ーー学生街として賑わっているひようらに対して、海外の香気を感じる高級住宅地として在り続ける田園調布。

同じ構造の街とはいえ、受ける印象は全く異なりますね。この雰囲気の違いは、どこから生まれるのでしょうか。その理由を、実際に田園調布を歩いて調査してみました。

ひようらと田園調布は、よく見たら全く違う形?田園調布に行って調査してみた。

左:ひようら(日吉駅西口) 右:田園調布駅西口

—日吉駅周辺と田園調布駅周辺を比べてみよう

ここで、ひようらと田園調布の地図を比較してみましょう。

田園調布はきれいな扇型の環状道路になっていますね。ですが、扇形の土地に四角い建造物を敷き詰めると所々に隙間ができてしまうので、土地経営においては不利になってしまいます。

そこで、ひようらは完全な扇型ではなく、ダイヤモンド型の角ばった道路にしました。このような土地を「台形の変形地」と呼び、扇形の変形地に比べて隙間がなく建物を敷き詰められるという利点があります。

つまりひようらは、田園調布の欠点を改善した結果作られた上位互換の街だったのです。

しかし、実際に田園調布に行ってみると、ひようらとは異なる良さが発見できます。特に目立つところは、圧倒的な「緑」の多さ。

どうやら田園調布は、自然と人間の共生を目指す『田園都市(ガーデンシティ)』と呼ばれる都市構想で街づくりが行われ、家作りの際にも細かなルールが設定されているようです。

建物の間に隙間ができてしまう欠点をバネに、緑で隙間を埋め、ブランド化を図った田園調布。一方で、ひようらは「慶應義塾」の誘致で街に付加価値を与えました。

「ひようらの街並みは田園調布のイミテーション」という事実が慶應生の中であまり知られていないのも、田園調布とひようら、それぞれ違うアプローチで街づくりが行われたからだと推測できます。

日吉からさほど遠くない距離なので、ひようらとは違った刺激を求める慶應生は、田園調布を散歩しましょう!今まで見えてこなかった視点や気付きが、きっとあるはずです。

ひようらの都市構想には、新紙幣の肖像となった渋沢栄一が関係していた!慶應の時代は終わらない!

—まだ慶應の時代は終わっていない!!

話は変わりますが、皆さんは2024年から採用される新紙幣案を見てどう感じたでしょうか。

一万円の肖像が、福沢先生から渋沢栄一に変わり「慶應の時代も終わりか」と落胆した慶應生も多いかもしれません。

しかし、渋沢家は日吉にゆかりのある、慶應を陰で支えた重要な一家でした。

渋沢栄一がいなければ、日吉キャンパスやひようらがそもそも存在しなかった。もっと言えば、慶應大学の施設がここまで充実することはなかったかもしれません。

なぜなら、渋沢栄一が『田園調布株式会社』の創設者であるからです。すなわち「慶應に日吉の土地を提供し、開発を行う」という提案の発起人であったのです。

彼は、日本資本主義の父として知られていますが、同時に、【日吉キャンパス創設の父】でもありました。

さらに、田園調布やひようらの街並みを提案したのは、渋沢栄一の四男である渋沢秀雄でした。

秀雄は、1919年8月に欧米諸国11カ国を訪問し、あの独特の街並みを考案したのです。彼は特に、サンフランシスコ南部にある高級住宅街セントフランシス・ウッドを気に入り、その住宅街に影響を受けて都市構想を練ったと言われています。すなわち、彼は【ひようらの父】と言えます。

この事実を知れば、「第二の慶應の時代がやってきた!」と新紙幣に対してポジティブな印象を受けるでしょう。

あの同心円状の道には意味があった。感動の理由に涙が止まらない。

—あえて街並みを同心円状にした理由とは?

とはいえ、秀雄のエポックメイキングなアイデアはすぐに採用されたわけではありません。むしろ、田園調布やひようらは大変な議論の末に生まれた街で、現在この街並みが実現しているのは奇跡的なことなのです。

というのも、秀雄の提案した『エトワール型道路』には、反対意見が多く挙がっていました。土地経営上の利益という面で、このアイデアは採算を度外視しないと実現できないためです。

実際、田園調布の西側は、街全体の面積に対して道路面積が約18%を占めています。土地経営上の利益を上げるために工夫を施したひようらでさえ、一般的な街よりも道路面積の割合が大きくなっています。つまり、このアイデアは非常にコストパフォーマンスが悪かったのです。

そこまでして、なぜ秀雄は同心円状にこだわったのでしょうか。

(ーーと疑問を投げかけましたが、ひようらを歩いている皆さんなら、自ずと答えは見えているでしょう。)

あえてここでは理由を明記せず、渋沢秀雄自身の言葉を引用して締めたいと思います。

碁盤の目のような町は分かり良いけれども、味もそっけもない気がするんです。先の先まで見通せるでしょう。だから町なみに夢もないんです。カーブしている道は、どんな家に出会うか、どんな樹が見られるか、行ってみなくちゃ分からない。

最後に

私たちが大学で学ぶ理由も、ひようらの街並みと同じです。人生は先が見えないからこそ、色んなことを知ろうとする好奇心が湧き、それを満たそうと努力する。

人生における大切なことは、ひようらを歩くことできっと見つかるでしょう。日吉キャンパスで学ぶということの本当の意味は、「ひようら」を歩くということかもしれません。

友達と遊んだり、ご飯を食べたり、ただなんとなく道を歩いてみたり。そんな『第二の学び舎』である日吉の街で、新たな発見をしてみませんか。

そこには、あなたがまだ知らない日吉の世界が広がっているはずです。

ABOUT この記事を書いた人

法学部政治学科。下の名前は「りょうせい」ですが、寮生ではありません。両生類でもありません。
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